あの日にかえりたい

初めて鏡の前で女性の服を纏ったときの耳元まで響く心臓の音を、今でもよく覚えています。

当時の私はまだ自立もしていなくて、好きな女装を始めるのは家族が寝静まってから。家中の電気が消え、ようやく訪れた静寂。服のこすれる音さえ立てないよう慎重に着替え、慣れない手つきでウィッグを整え、口紅を引いてみる。やがて鏡の中に現れたのは、街中を歩く憧れの女性の雰囲気を重ねたもう一人の自分。

年月が経ち、今の私は誰に気兼ねすることもなく、好きな時に紅を引き、好きな服を選ぶ自由があります。それなのに、鏡の前の私の心は、あの頃のような高鳴りをすっかり忘れてしまいました。

決して女装が嫌いになったわけではないのです。思いは変わらずあるけれど、女装をするために、毎日夜を待ち焦がれていたあの熱量は、もうどこにもありません。

だから、あの頃の情熱を思い出すために、あの日と同じ色の紅を、そっとくちびるにのせてみたりするけれど、やっぱりどうにも気持ちがついてこないのです。

あぁ もし叶うのなら、もう一度だけあの日にかえりたい。

あの頃の燃えるような熱量は、今はもうないけれど、それは消えてしまったわけではないのです。高鳴りはなくても、この服の感触も、紅の艶やかさも、今の私の日常です。だからこれからは、あまり過去に囚われないで、自分らしく女装して、誰かに見せるためではない、自分ひとりの楽しみとして穏やかに過ごしていければいいのかなって思います。

3.9.2026

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